運命とは?
国語辞典で調べてみると。「
物事の成り行きや人の身の上を支配し、人の意志で変えることも、予測することも出来ない力」、とされています。
と言うことは、やはり「運命」という不思議な力は、昔から世間で常識的に認められている訳です。この「運命」は、物事の成り行きも支配している訳です。人の人生に於ける身の上も支配し、結果的に人の一生を司る不思議な力です。
これと同じようなことを、あの有名な心理学者「ユング」も言っています。
「
偶然の出来事は、偶然に起こるのではなく、必然的に起こる出来事である」と。
世の中の誰もが、「何の因果もなく、たまたま起こった偶然の出来事で人生を大きく変えられてしまった出来事は、偶然に起こった事だった、だから運が悪かったんだ」などと言います。運の悪い出来事に、たまたま偶然に遭遇し人生を大きく変えられてしまった。だから運が悪かった?
奇妙な表現ですよね。運が良いとか、運が悪いとか、いつでも偶然に起こるのでしょうか?
ならば、一生運の悪い人、不幸な人って居ますよね。その人は、あまりにも偏った偶然が多すぎるじゃあ有りませんか?
逆に、一生平均的に幸せに暮らせて、人並みの人生を全う出来る人も、偶然に運の悪い事が少なかったのでしょうか?
これって「不公平」ですよね。いわゆる「乱数表」という物を使って数字を出す方法が有りますが、これはムラのない偶然を作り出すシステムです。
なのに、実際のこの世は、ムラの多い偶然の集合体みたいなものですね。
「運命なんて決まっていない! 偶然の出来事だ!」と言い切る人も多いです。
それは、それで結構。
しかし、科学で解明できない事も、この世には百万と有ります。
人間の科学が解き明かした、この世の不思議は、全体から観れば、ほんの一握りの事です。科学者と言えども判らない事だらけなのがこの世です。
ここで、台湾の書籍から「運命」について面白い記述が有るので抜粋で掲載させて頂きます。
「参考文献 四柱推命大全 著者・鍾進添/訳注者・山道帰一」
(鍾序より)
『中国の前漢時代の言葉として「一に命、二に運、三に風水、四に陰徳、五に読書」というものがある。これは「命運」は1つの人生における「現象」であり、それは1つの「事実」に帰結する。という意味である』
分かりやすく解説します。
「
命」とは生まれながらの天命、つまり生まれつきの人格。紫微斗数でいえば「命宮」に相当する。
「
運」とは後天的に巡ってくる運勢のこと。紫微斗数で言えば、巡る年月の「流年運」のことである。
「
風水」とは、人生を送る環境のことである。あるいは活動する地理地域のことである。
「
陰徳」とは、人目には観えなくとも、世のため人のために尽くす行動のことである。
「
読書」とは、学問、知識、教養を身につけることである。
これらを言い換えると、「一に生まれ持った素質。二に巡る運の良さ。三に周囲の環境。四に人徳、人に尽くす。五に学ぶこと」である。
つまり、人生の成否は「2/5は、生まれ持った運の良さが必要で有る。ということ、3/5が努力で有る」 こうしてみると、如何に生まれつきとは言え「運」の良さが人生を大きく左右するということである。もし大発展を望むなら、2/5の運の良さを備えていないと叶わぬ夢となる訳だ。
もう少し、著書から抜粋してみよう。
『古代において早くから気付きを得ている人がいた。
一生を通じてさえ、滅多にハッキリと物を言うことが無かった
孔子が、「五十にして天命を知る」と言い、また「命を知らざれば、故に君子たること無き成り」 と語ったと・・・』
つまり、自分の天から与えられた宿命が理解出来たのは50歳になってからだと。また、自分の天命、宿命を知らなければ君子(徳の高いりっぱな人)に成ることは無い、という意味で有る。
著書には、面白い例が記述されている。以下はその抜粋であるが、分かりやすく記述した。
『古代中国の名宰相(今で言う総理大臣のような存在)になった人物、呂蒙正が語った言葉として、「文章が世に抜きん出ていても、孔子は陳邦において困難に出くわし、武略に抜きん出ていても太公望は池で釣りをして生活した。
顔回は短命であったが、決して凶悪の徒に非ず。盗跖(古代中国の大盗賊)は長生きしたが、善良な輩で有ったろうか?
曉帝は聖人であるが、不肖(才能がなく、愚かである)の子を産み、瞽そうは頑固で愚かであったが、この上ない孝行の子を産んだ。
張良は最初庶民だったが、大臣になった。
孔明は鶏も縛る力が無かったが、軍師となった。
李廣は寅をも射るが、年老いても大名の土地さえも得られなかった。
漢王は軟弱であったが、万里、江河を掌握した。
先に貧有れば、後に富が有り、老いて盛り上がれば、若くして衰有り。
若い美女が、愚かな夫に嫁ぐ、秀才な夫に反して俗的な醜女の嫁に妻合わせられる。
遊郭の芸姑、時が来て嫁入りし婦人と成り、院宮深くの美女、運が去りて娼婦と成る。
学が無く才能が無くても、若くして試験に合格する人が居る一方で、才能豊かでも白髪に成るまで試験に合格出来ない者も居た。
英雄や豪傑でも、未だ運に逢わざれば、魚やスッポンのように身を潜めるしかない。
君子も失時(活躍のチャンスを失う)すれば、小人(人格の低い人)の下で下男を努めなければならない。
時期が未だ到らなければ、慎んで分を守り安心するが良い。心を欺かないならば、栄華ある日が定められる。
天-時を得ずば、日月は明けず。
地-時を得ずば、万物は生じず。
水-時を得ずば、風波は平らにならず。
人-時を得ずば、幸運は通わず。
(中略)
今日の社会においても、突出した才知が有り、才知に加え努力も決して怠ることが無い人達が、結果として一生、志を得ることも結果を出すこともなく終わってしまう。あるいは事業も旨くいかず、人の下に屈し続けている、実に多くの才知が有り、努力もしている人たちがいる。
これに反して、才知に長ける訳でもなく、いたって凡庸な人が、単に運気が大変素晴らしいために、富めるだけでなく、その人の部下には幾人もの秀才が居る。これは事実である。
そして、このような現象は、「命運」に帰結するより他に合理的な解釈が思い浮かばない。
「鍾進添 著書より抜粋」
「命運」とは不可思議なものなり、「命運」が憑かなければ努力すらも実らないものなり、
この不可思議な「命運」を解き明かし、「命運」に添った生き方をすることこそ、天の理の添った生き方と思う次第なり。