他の占術との違い

 紫微斗数と他の(占い)占術との違いを少し述べてみます。
紫微斗数と比較される占いに「四柱推命」が有ります。なぜ「四柱推命」が紫微斗数と比較されるかといいますと、この2つの占いは
起源も発祥も、ほぼ同じで中国なのです。ただ、日本へ伝わって来る過程に大きな違いがありました。
 四柱推命の元と成ったのは。1100年代の中国の除子平という人が残した書が最古とされている。
四柱推命のことを調べたければ、巷の書店の「占いコーナー」にたくさんの種類の本が並んでいるので、それを参照して頂きたい。
書店に足を運ぶのが面倒な方は、以下のリンク「ウィキペディア」を参照して頂ければ簡単な事は解ります。
ウィキペディア 「四柱推命
紫微斗数についても、ウィキペディアで簡単な事は解ります。以下のリンクから参照してください。
ウィキペディア 「紫微斗数
2つの占いの起源については、お分かり頂けたと思います。

 紫微斗数が日本に普及する以前は、四柱推命に勝る、的中率の占いは無いとまで言われました。
しかし、四柱推命は日本国内において、多くの流派に別れることになり、流派によって占いの結果に大きな違いが出てしまうという困った問題も現実化しました。
 そこへいくと、紫微斗数はまだ日本に入ってきて歴史が浅いために、流派というものは存在しません。また日本に入ってきてから、本場の台湾で占いの技術革新が日進月歩で進み、次々と新しい鑑定法が編み出されてきました。これは編み出されたというより、秘伝と成っていた技術が公開されていったと言う方が正しいかも知れません。
紫微斗数には、このような事情が有りますから、日本に伝来した当時の鑑定法「三合派」と云いますが、この三合派の鑑定法が当初は中心となっていました。
「三合派」というのは、別名「星曜派」とも云いますが、「命盤」というホロスコープに配置される星(文字の事)の種類と、その位置から人の一生涯の傾向を読み取る鑑定法でした。しかし、これには少し正確さに欠ける所が有りました。

その後、やはり台湾から「四化飛星法」という鑑定法が伝わりました。この「四化飛星法」は、秘伝とされ、なかなか一般には公開されていませんでした。もちろん書店の「紫微斗数」の書籍にも詳しくは触れられていません。「四化飛星法」を学ぶには、師匠に就いて、集団講義や個人講義で学ぶしか方法は有りません。

現在の日本のほとんどの「四化飛星法」は、この当時の鑑定法が広まったものです。
「四化飛星法」を使うと、「星曜派や三合派」では、解らなかった吉凶が鋭く判るようになりました。
例えば、三合派で素晴らしい結婚運の鑑定結果を得ても、「四化飛星」で観ると「大凶」ということが現実に判るようになりました。
よって、今では、「三合派(星曜派)」と「四化飛星派」の両方の鑑定法で観るようになりました。
それは、どちらも長所、短所が有るからです。両方で観ることによって、象意を見逃すこと無く詳しく鑑定出来るようになりました。

つい最近では、四化飛星の方法に多少の違いのある鑑定法も日本に伝わって参りました。こちらは、巡る年月の運勢を鋭く鑑定することが出来ます。それぞれ特徴が有り、それらを全て使いこなせば万全な鑑定が出来るという訳です。

紫微斗数には、このように日本に伝来して来てからの広がり方に、統一性が有り、四柱推命のように、枝葉に鑑定法が判れて行ったという過程を、経なかったのが幸いしたのだと思います。

紫微斗数には鑑定法のレベルに応じて、「三合派(星曜派)」、「四化飛星派」、「欽天四化派」の三種類が現在の日本には存在しています。そのうち、「欽天四化派」の紫微斗数は従来型の紫微斗数とは名称こそ似て居ますが、まったく別物の占いと言えます。
どちらかと言えば「四柱推命的」な雰囲気です。
現在、日本で「欽天四化派」の紫微斗数を指導されているのは、芦屋の「田中風州先生」一人のみと思います。
的中率100%、という触れ込みでにわかに人気沸騰してきました。

「欽天四化」には数多くの理論があります。その数多くの理論は難解で、理論を丸覚えしても実際の鑑定にはなかなか役立ちません。それをまともに使えるように成るのには、何十年も経験が必要とも云われています。しかし不完全な解釈ではいくら経験を積んでも間違えた解釈が広まって行くばかりです。

最近は、「欽天四化」の講座が田中風州先生によって多く開催されるようになりましたが、その講座でも理論の詳細について説明があまりされていないので、講座を修了しても実際の鑑定で正しく使えていない占い師も多いです。
講座を修了しても理論の解釈が不完全のままで世に広まって行くと、誤った解釈が広まってしまいます。
その結果、日本の四柱推命と同じで、占い師によって鑑定結果がバラバラということが、当たり前に成るのではと危惧しています。
欽天四化を世に広めるのは大いに宜しいことですが、いい加減な広め方ではなく、教える側は生徒の疑問にしっかり答えられるだけの、確かな技量を持って望まなければ成らないです。今後、解釈がバラバラになって、収拾のつかなくなる事態になるのではと危惧しています。